たまには・・・イスラームのお話「ハラールとハラーム」について~その3

前回その2の続きです。今回(3回目)で終了です。

*****以下転載です。*****

慈悲あまねく慈愛深きアッラーの御名において
40のハディース 第38回
الأربعين النووية  2015年10月28日
イマーム アンナワウィー編    『40のハディース』解説


第6のハディース
عن أبي عبدِ اللهِ النُّعمانِ بنِ بَشيرٍ رَضِي اللهُ عَنْهُما قالَ:( سَمِعْتُ رسولَ اللهِ صَلَّى اللهُ عَلَيْهِ وَسَلَّمَ يقولُ: {إنَّ الحَلاَلَ بَيِّنٌ وَإِنَّ الْحَرَامَ بَيِّنٌ، وَبَيْنَهُما أُمُورٌ مُشْتَبِهَاتٌ لاَ يَعْلَمُهُنَّ كَثِيرٌ مِنَ النَّاسِ،   فَمَنِ اتَّقَى الشُّبُهَاتِ فَقَدِ اسْتَبْرَأَ لِدِينِهِ وعِرْضِهِ، ومَنْ وَقَعَ فِي الشُّبُهَاتِ وَقَعَ فِي الْحَرَامِ، كَالرَّاعِي يَرْعَى حَوْلَ الْحِمَى يُوشِكُ أَنْ يَرْتَعَ فِيهِ، أَلاَ وَإِنَّ لِكُلِّ مَلِكٍ حِمًى، أَلاَ وإِنَّ حِمَى اللهِ مَحَارِمُـهُ،    أَلاَ وَإِنَّ فِي الْجَسَدِ مُضْغَةً إِذَا صَلَحَتْ صَلَحَ الْجَسَدُ كُلُّهُ، وَإِذَا فَسَدَتْ فَسَدَ الْجَسَدُ كُلُّهُ،       أَلاَ وهِيَ الْقَلْبُ}) رواه البخاريُّ ومسلمٌ.

第 6 の伝承
バシールの息子、アブー・アブドッラーフ・アンヌアマーン―アッラーよ彼ら両名を嘉したまえ―の権威による。彼は伝えている。私はアッラーの御使い―アッラーよ彼に祝福と平安を与えたまえ―がこう言われるのを聞いた。

≪許されたこと 1は明らかであり、禁じられたこと 2もまた明瞭であるが、その中間には多くの人々が知りえないさまざまな疑わしい事柄がある。
したがって疑わしい事柄を避ける者は、自分の宗教、名誉に関して〔過ちから〕免れるが、それに足を踏み入れる者は禁じられた行為を犯すことになる。
これはちょうど聖域のまわりで動物を飼う牧童 3が、聖域の中で動物に草を食ませる危険を冒すようなものである。まことに王者は誰しも聖域をもっているが、アッラーの聖域とはそのさまざまな禁令である。
まことに肉体の中には一片の肉があり、それが健全な場合肉体はすべて健全だが、それが腐ると肉体もすべて腐ってしまう。その〔一片の肉〕とは心のことに他ならない。≫
この伝承は、アルブハーリーとムスリムの 2 人が伝えている。

1 原語ハラールとは宗教で許されたこと、許された行為を指す。
2 原語ハラームとは宗教で禁じられたこと、禁じられた行為を指す。
3 聖域中で動物に草を喰ませてはならないが、えてしてその周囲で動物を飼う牧童は知らぬ間にその禁を破ってしまいがちである。
シェイフ ラマダーヌ ルブーティー師(アッラーのご慈悲あれ)の講義28(30:00~最後),29(~)参照

ハディース解説

預言者様(彼の上にアッラーの祝福と平安あれ)は、このハディースで、イスラームのフクム(見解)に含まれる事柄は3つに分類されることを教えています。

1. 疑いのないハラール(許されていること)
2. 疑いのないハラーム(禁じられていること)
3. 上記の1と2のどちらにも入らないもの(ムシュタビハート:疑わしい事柄)

前回は、3の「疑わしい事柄」についての3つの種類のうち、1種類目「根拠に疑いがある場合」についてお話ししました。今日は、その続きで「疑わしい事柄」2種類目についてです。

【お願い】
この「疑わしい事柄」についての知識は、他の人に伝えるときに注意が必要です。この知識は、まだムスリムでない人や、ムスリムになって間もない人には必要ないものだからです。
物事には順序があり、ムスリムになったばかりの人には、アッラーと預言者さま(彼の上にアッラーの祝福と平安あれ)のことを知ることが一番大切で、生まれたばかりの大切な「信仰」を守っていくことが最も優先されます。ですから、もしムスリムになったばかりの方がこれを読んでいたら、「疑わしい事柄」についての説明は必要ないものなので、読み飛ばしてください。

「疑わしい事柄」
2.ハラールの物とハラームの物が混合している場合。

ハラールだという確証があるものと、ハラールだという確証があるものが、混じり合っている場合です。ハラールとハラームが完全に混じり合っていて、そこからハラームのものを取り除くことができない場合の例をいくつか挙げます。(完全に取り除くことができる場合は、ハラールになります。)

例1:ある男性が、親戚の3人の娘の中から、妻を選ぶように言われました。ところが、その中には、彼と母親が同じ妹がいることが判明します。男性は、妹ではない他の二人の娘から1人妻を選ぼうと思いますが、誰が妹なのかわかる人はもう亡くなってしまっていません。「疑わしい事柄」の状態です。彼が妹と結婚することは、もちろんハラームです。他の2人のどちらかと結婚することはハラールです。では、誰が妹かわからない状態で、その3人から妻を選ぶことはどうでしょうか?この見解は、ハラームです。その根拠は、このハディースです。
《したがって疑わしい事柄を避ける者は、自分の宗教、名誉に関して〔過ちから〕免れるが、それに足を踏み入れる者は禁じられた行為を犯すことになる。》
この場合、確率的には3分の2の確率でハラールなのだから、いいのでは?と言うことはできません。ただ、その確率が、3人姉妹ではなくある町全体の人口の中の1人で、例えば10,000人のうちの1人、と言う場合、99%はハラールになるので、「疑わしい事柄」ではあっても、ハラールになります。しかし、ワラア(用心、敬虔さ)という段階があり、ハラールであっても、ワラアによって、その町ではなく他の町から妻を選ぶ方がより賢明です。

例2:ある会社のお金がハラールとハラームのお金が混ざっている場合、そのお金は、そのハラール性が「疑わしいお金」になります。では、その会社で働き、そこからお給料をもらうことはハラームでしょうか?大部分の学者の見解は、働いた分の賃金だけをそこからもらえば、そのお金はその人にとってハラールのお金となる、というものです。これは預言者様(彼の上にアッラーの祝福と平安あれ)のハディースに拠ります。預言者様(彼の上にアッラーの祝福と平安あれ)の時代に、啓典の民たち(キリスト教徒やユダヤ教徒)が、お酒を売ったり、ハラームのことでお金を稼いでいました。ムスリム達は彼らからジズヤ(人頭税)をとっていましたが、預言者様(彼の上にアッラーの祝福と平安あれ)は、国庫の中に入るそのお金と他のお金を分けるようにとはおっしゃいませんでした。つまり、「疑わしいお金」であっても、一緒にして使っていたのです。これが根拠です。ハラール性が「疑わしいお金」からであっても、ハラームがハラールよりも多いことがわかっていても、働いた賃金は、そこからもらうことができ、それはその人にとってはハラールになります。ただ、それがハラールであっても、ワラア(用心、敬虔さ)という段階があり、ワラアによって、それを手にしないということももちろんできます。

3.ハラールとハラームどちらの根拠もある場合。

ムスリムが屠殺したもので、アッラーの御名(ビスミッラー)を唱えずに殺された肉についてクルアーンにはこうあります。
【またアッラーの御名が唱えられなかったものを食べてはならない。】クルアーン 家畜章6-121
屠殺時に「ビスミッラー(アッラーの御名において)」と唱えられなかった肉はハラームという意味ですが、ハディースにこうあります。
《ムスリムが屠殺したものはハラールです。アッラーの御名を唱えても、唱えなくても。》タバラーニー伝承

これは正反対の根拠が2つともあるように見えますが、どうしたらいいのでしょうか?これについての見解は、4学派の学者の中でハラールとしている学者がいるため、その肉を食べることはハラールです。しかしここでもワラアによって、食べないことももちろんできます。

ムスリムの中には、ハラールとハラームという二つの段階だけを気を付ける段階と、更にその上の、疑わしい事柄をワラアで避ける段階があります。このハディースは、この「疑わしい事柄」を避けることで、自分の宗教を守ることができることを教えてくれています。

しかし、教育的には、このハディースを誰かに伝える際には気を付けなければならないことがあります。つまり、すべての人にワラアを薦めるべきではありません。私たちは、常に、誰に対して伝えるのか、を考える必要があります。相手の理性の強さと信仰の強さを考えて、相手の人にとってふさわしいことだけを話すべきです。シャリーア(イスラーム法)において、ムスリムになったばかりの人たちに話す時に、ワラアや疑わしい事柄の話をすべきではありません。それを話すことによって、ムスリムになったばかりの人の重荷になって、大事な信仰までも捨ててしまうかもしれない危険があるからです。もしそうなってしまえば、その不信仰の原因を作ったのは、自分ということになってしまいます。
預言者様(彼の上にアッラーの祝福と平安あれ)はおっしゃいました。

《人々がわかることを話しなさい。あなた方は、彼らがアッラーとその使徒を否定することを望むのですか。》
ブハーリー伝承

アッラーのお導きによりムスリムになったばかりの方に、義務ではないスンナの礼拝やスンナの断食を薦めるでしょうか?「この日のスンナの断食をしないといけない!このスンナの礼拝をしなければならない!」などと伝えるべきではありません。新しくムスリムになったことを祝福し、知識を学ぶ場所に案内し、善い友達ができるようにサポートし、その方の信仰が強くなっていき、義務のこと以上にやりたい気持ちになったときに、初めて教えてあげればいいことです。

すでに義務の行いは完璧にできていて、スンナの行いもやっている人たちには、この「疑わしい事柄」を避けることや、ワラアという段階について伝えることは構いません。このように相手によって伝えるべき事柄は違っています。

イスラーム学者のハンバリー学派の始祖イマーム・アハマド・ブン・ハンバル(アッラーのご慈悲あれ)のところにある女の人がやって来て見解を尋ねました。
「私は毛糸を紡ぐ仕事をしていますが、家には明かりがありません。夜になり、家の外を王の軍隊が通りかかると、その明かりが差し込みます。私がその軍隊の明かりで、糸をつむぐことはハラールですか?(許されていますか)?」
その明かりは自分のものではないからです。その軍隊はもしかしたら悪いことをしてハラームを犯している人たちかもしれません。自分の物ではない、ハラールかどうかわからない明かりを自分が使うことの見解を、彼女は尋ねに来たのです。イマーム・アハマドはとても驚いて尋ねました。「あなたは誰ですか?」彼女は、「私はビシュルの姉妹です。」と言いました。彼女は、敬虔なことで有名なイラクの知事ビシュル・ル=ハーフィ(アッラーのご慈悲あれ)の姉妹でした。イマーム・アハマドは彼女にこう見解を伝えました。「あなたはその明かりを使うことはできません。」

もし普通の女性が同じことを尋ねたなら、彼は、もちろん大丈夫です、その明かりを使いなさい、と言ったでしょう。イスラーム的には、それはハラールだからです。しかし、その人の信仰の度合いによって見解はこのようにまったく異なります。私たちは、誰かにイスラーム法の見解を伝えるときには、どういう人なのか、どう伝えるべきなのか、を考えて話す必要があります。

また、預言者様(彼の上にアッラーの祝福と平安あれ)は、《したがって疑わしい事柄を避ける者は、自分の宗教、名誉に関して〔過ちから〕免れる》とおっしゃっています。ここで言う「名誉」というのは、自分の名誉が傷つくようなことをしないだけでなく、人が自分を疑うようなことも避ける、ということです。アッラーに守れていらっしゃった預言者様(彼の上にアッラーの祝福と平安あれ)でさえ、人に疑いの気持ちを抱かせないよう注意していました。

サフィーヤ・ビント・フヤィイー(アッラーのご満足あれ)はおっしゃいました。
《預言者がお籠りの行をされておりました。私はその御方にお尋ねすることがありまして、夜伺いました。
そして私はその御方にお話しました後、帰るために立ちますとその御方は私を送って下さるために外にお出になりました。その頃私はウサーマ・ビン・ザイドの家に住んでおりました。折りしも、アンサールの男二人がその御方の側を通りかかりました。そして預言者を見ると歩みを早めたのです。
預言者は「二人共落ち着いて歩くがよい。この女性はサフィーヤ・ビント・フヤィイーである」と申されました。
するとその二人は「アッラーに称えあれ、アッラーのみ使いよ(われわれはあなたに関して疑いなど微塵も抱いてはおりません)」と言った。
その御方は「サタンは人間の血管の中を循環している。私はそれがあなた方の心に悪い(または何かの)考えを起させはしないかと懸念したのだ」と申された。》ムスリム伝承

誰も預言者様(彼の上にアッラーの祝福と平安あれ)を疑うことはありません。しかし、預言者様(彼の上にアッラーの祝福と平安あれ)は私たちに自分の行動をはっきりさせ、疑いを持たれないよう